弊鋪の裏、尾崎に通ずる急斜面の石畳を下りたところに「宗祇水」又は「白雲水」と云われる泉があります。四季変ることなく手を切るような美しい水が滾々と湧き出ています。宗祇は西行や芭蕉と並び称された室町時代の連歌師で歌を詠じつ、諸国を歴遊した放浪の詩人です。 文明二年、歌の殿様として有名な東常縁(郡上市大和町牧・篠脇城主)を訪ねてはるばる都から下り、その門に入って和歌の道を学び門人の中で随一として常縁の優遇を受けました。宗祇を伴って郡内を遊びました風雅の遺跡がいまも各所に残って居ります。宗祇はこの地に三年余足を留めて、古今和歌集の伝授を受け再び旅に出ましたが、常縁は別れを惜んで数里の道を送って現在の「宗祇水」の附近に至り、美しく咲く老桜の下で清冽な泉に想いながら歌を詠みました。 もみぢ葉の流るる竜田白雲の 花のみよしの思い忘るな とそれに答えて宗祇は 三年ごしこころをつくす思い川 春立つさわに湧き出づるかな と返したと伝えられています。弊鋪はこの美しい師弟愛に因み、白雲と桜になぞらえた紅白の「くるみ餅」に宗祇と名付けました次第です。 「雨も降らぬに袖しぼる」 情緒豊かな郡上の味を、末永く御賞味下さいますようお願い申し上げます。
室町時代の郡上は代々歌道にすぐれた東氏が勢力をもっていました。常縁は九代目として篠脇城主となり、時の将軍義政に仕え、勤番のかたわら歌道の尭孝の弟子となりのちに、飯尾宗祇、近衛関白政家、将軍義尚らの師となり、古今和歌集の要旨を教え勤番と歌道の生活でした。 そのうち、関東の千葉氏(東氏宗家)で内紛が起り、それを鎮圧する為下向しましたが、内紛はやがて掘越公方と古河公方との対立となり争乱は長引きました。常縁はその間、十余年の月日を関東で過すことになり、領地に戻るとすでに領地は斉藤妙椿に奪われていました。常縁が亡父の追善供養の際、その嘆きを和歌に託して詠んだ所、伝えきいた妙椿から和歌を送ってくれれば所領を返す、との申し入れがあり、妙椿と体面して和歌の贈答が行われ、無事所領を取り戻す事が出来たのでした。又師弟宗祇との関係は強く結ばれ、文明三年(1471)の新春には宗祇は美濃へ分けいりました。翌年、郡上山田庄において、常縁は宗祇に世に有名な古今伝授を行っています。後、常縁は明応三年(1494)4月18日、94歳の高齢で世を去り、その墓は乗性寺(美並町)にあります。 弊鋪はこの美しい師弟愛に因み、求肥に抹茶が入った風情ある餅を調製し名を常縁と名付けました。 情緒ある郡上の銘菓として姉妹品『宗祇』『常友』と共に、末永く御賞味下さいます様お願い申し上げます。
八幡城主、遠藤氏三代目常友(1628〜1676)は、領内の各地に土木工事を起して、灌漑・新田開発等を行い、藩の増収を図りました。また常友は、城下の岩山を開き橋を架け、道路整備も行い、各宗派の寺院を揃える為、各地より寺院の移動をさせました。このように、郡上八幡の今日の発展の礎は、常友に負う所が大きのです。一方常友は、文字・詩歌を愛し、絵画・能楽をたしなみ、先人の遺跡や遺墨を修める事に厚い人でした。特に、先祖である東常縁の詠歌を編纂した「常縁集」は後水尾上皇から賞賛を受け、題字を賜りました。 弊鋪は、常友の詩歌を愛した心に因み、良質な素材で練り上げた求肥を、なつかしい肉桂の風味に仕上げ常友と名付けました。 姉妹品『宗祇』『常縁』と共に情緒豊かな郡上の銘菓として末永く御賞味下さいます様お願い申し上げます。
宝暦年間四万八千石を領した郡上の八幡、積翠城(八幡城)城主青山幸道を初代として、明治の幸宣に至るまで七代百有余年にわたり平和的な仁政をしき、よく領内を治めました。時の将軍はこれを喜賞して青山家へ金の弩標を下賜されました。金の弩標とは馬印のことで、これを行列の先頭に立てた時は、拾万石の格式をもって遇せられたという貴重な物で、全国にこれを有する大名は稀であったと伝えられています。 これに因み、本舗かねて営々苦心の結果「最中」の中の絶品「金の弩標」を独創謹製いたしました。 何卒郡上みやげに御茶菓に末永く御利用下さいますようお願い申し上げます。
女流俳人の第一人者であった中村汀女の著書に「ふるさとの菓子」という本があります。 この中に、弊舗桜間見屋の肉桂玉について記された一文と俳句がありますので、ご紹介させていただきます。